軍事研究室 Military Study Room

 

第二次大戦中の最強戦車は?

  大戦中の戦車の能力(理論値)についての考察 

まず以下の表をご覧ください。(出典「戦車対戦車」三野正洋著 朝日ソノラマ新戦史シリーズ81より抜粋)

  総合戦闘力(γ) 生産効果(R) 戦闘重量(t) 総合(γ+R)
T-34/76 100 100 28 200
T-34/85 318 278 32 596
Ⅴ号(パンサー) 164 102 45 266
Ⅵ号Ⅱ型(タイガー2) 160 64 70 224
M26パーシング 121 81 42 202
M4シャーマン 26 20 36 46
チャーチル 18 13 40 31
三式中 33 49 19 82
JS-Ⅱ(式を元に計算) 185 113 46 298

☆T-34/76を100とした場合の点数。総合戦闘力は攻撃力、機動力、防御率などを組み合わせて独自の計算式に当て

はめ算出。生産効果は戦闘重量1トン当たりの戦闘能力(設計の良さ等)を示す。

★本稿の戦車とは全周回可能な砲塔を持つものを指していますので、ドイツの駆逐戦車(ヤークトパンサー

など)や突撃砲、自走砲と呼ばれるソビエトのSU-85などは除いています。

なおこれらについても後ほど検証してみたいと思います。

 

 まず総合戦闘力ですが、意外にもタイガー2がT-34/85の半分しかなく、パンサーよりも低いことがわかります。もう少し

細かく見てみると、

 ①タイガー2は攻撃力、防御力でT-34/85を凌駕している(1.4~1.7倍)ものの、機動力はT-34/85の25%、攻撃戦闘力(機動力

を用いての戦闘力)がT-34/85の55%程しかなく、パンサーとほぼ同じである。ただし防御戦闘力(防御力を用いての戦闘力)

はT-34/85のほぼ2.3倍ある。余談ですが映画「フューリー」で、待ち伏せされたシャーマンがタイガー1の一撃で砲塔ごと

すっ飛ぶシーンがありました。

 ②T-34/85の攻撃戦闘力は非常に高く、タイガー2の約1.8倍ある。

 そして重要なのが生産効果です。T-34/85は実にパンサーの2.7倍、タイガー2の4.3倍もあり飛び抜けています。

 戦闘重量1トンあたりの戦闘能力のことですが、これは簡単に言うと「主砲の威力や装甲の度合いの割には重量が軽く、

無駄がない」ということでしょう。T-34/76とT-34/85は総合戦闘力でかなりの差がありますが、重量は4トンしか増えて

いません。またT-34/85の防御力はパンサーと同等ですが、ドイツより優れた避弾経始(車体のアール)により実際は

数字以上のものがあったと思われます。しかしながらタイガー2は70トンもあるのに関わらず生産効果がかなり高めであり、

これはいかにドイツが前機種の反省を元に力を入れていたか分かります。

  また実際にT-34シリーズの大戦中の生産台数はドイツ戦車に比べて桁が1つ違っていました。

T-34シリーズ 約57000両(T-34/76:34800両 T-34/85:22200両)
Ⅴ号+Ⅵ号戦車 約9400両(Ⅴ号:7550両 Ⅵ号Ⅰ・Ⅱ:1850両)
Ⅳ号戦車 約8300両
JS-Ⅱ 約3000両
    

          (ウィキペディアより)

※Ⅵ号戦車は平均して50両/月、T-34は1500両/月生産されていたと言われている。

 どうしてこんなにも大差がついてしまったのでしょうか。当初国力としては両国ともそれほど差はなかったと言われていま

すが、 大きな原因はソビエトは早くからアメリカなどから戦車を含めその他の車両を借り受けていたため自国では主力兵器の

生産に 集中できたためと言われています。いわば連合国同士の連携をうまく利用したと言えるでしょう。

  結論として戦車の特質から考察しますと、T-34シリーズは積極的に攻撃を仕掛ける攻撃型戦車、一方タイガー2は待ち伏せ

して相手を撃つ迎撃型戦車、 パンサーやJS-Ⅱはこれらどちらのタイプでもあると言えるのではないでしょうか。

 著者は結論で以下の順位を挙げています。

 ①T-34シリーズ

 ②Ⅴ号パンサー

 ③M26パーシング

 数字上はJS-Ⅱが2位、パンサーが3位にもかかわらず、パンサーを2位、M26パーシングを3位にしていますが、これは

同一国の戦車を含めなかったためかもしれません。

 ソビエトの戦車がこれほど優れていたのかとちょっと意外でしたが、あくまで机上の理論上でのことです。また、戦車vs戦車

という1対1で戦った場合の「最強」戦車、あるいは戦車「戦」という複数vs複数で戦った場合に最強の能力を発揮する戦車も

ありそれで評価するべきという議論もありますが、とりあえず実戦ではどうだったのか、次に見ていこうと思います。

 

 大戦中の戦車の実戦結果についての考察  

  実戦結果を考える上で基礎となるデータを挙げます。 (車両データ及び使用弾はすべてピーク時のもの)

  最高速度(km/h)     主砲発射速度 (発/分) 砲塔一周旋回速度(秒) 最大トルク(kgf・m) トルク対重量比(※1) 装甲最厚部(mm) 500/2000m最大貫通力(mm)(※2) 主砲
T-34/76 53 6~8 24 199 7.10 70 92/60 76L51.6
T-34/85 53 6~8 24 199 6.21 90 123/81 85L54.6
Ⅴ号(パンサー) 47 6~8 18 167 3.71 110 168/106 75L70
Ⅵ号Ⅰ型(タイガー1) 38 7 60 167 2.98 120 151/110 88L56
Ⅵ号Ⅱ型(タイガー2) 38 5~7 19 167 2.38 180 219/153 88L71
Ⅳ号戦車(※3) 40 8~12 26(電動) 71.5 2.86 80 96/64 75L48
JS-Ⅱ 37 3~5 16 183.7 3.99 160 155/100 122L46.3

※1 最大トルク÷戦闘重量 大きいほど停止から最高速度までの時間の割合が短いと言えるでしょう。

※2  装甲に対して90度かつ最大性能砲弾を使用 ただしドイツ軍(50%で貫通)及びソビエト軍(80%で貫通)で評価方法が異なる。

※3  最終型。Ⅳ号戦車は大戦が進むに従って大幅に性能が上がっていった。

最大トルクはエンジン最大馬力(PS)と回転数(rpm)より算出(参考:ウィキペディア)

 

  主砲発射速度はJS-2以外各戦車ともほぼ同じですが、砲塔旋回速度はタイガー1を除いてほぼドイツ戦車が優れている結果に

なりました。パンサーの砲塔が3周回る間にT-34は2周と1/4しか回らない計算なのでかなり差があるようです。

  また致命的な事ですが2000m離れてしまうとT-34では大方のドイツ戦車の正面からは太刀打ちできません。接近戦に持ち込むか、

多数で挑むしかないでしょう。

   加速力を見るとやはり機動力を重視したT-34がドイツ戦車の約2~3倍程になりました。 実際の戦闘をイメージしてみると、

熟練したT-34の兵士ならばドイツ軍戦車相手の砲撃戦では正面から直接戦うことはせず、左右に動いて揺さぶった後にスキを

ついて側面か後部を攻撃する戦法を取らざるを得ないでしょう。T-34の主砲ではタイガー2の前部は撃破出来ないからです。

   旋回速度の速い砲塔の砲撃とどちらが先に命中するかの勝負になると思われますが、T-34はミッション系の故障もかなりあった

ようです。

  機動力では優れているT-34ですが欠点もありました。次に挙げてみます。

 ①砲塔内が非常に狭く(特にT-34/76前期型)兵士2名でスシ詰め状態であったため、車長がその役割のみで乗車することがほ

 とんどなく、指揮系統が十分でなかった。この場合車長は砲手も兼ねていたようですが、大戦中期からは改善されたようで

 す。また、砲撃時は砲塔内の床が同時に動かないため、兵士は砲身の動きに合わせて動く必要があったようです

 ②狭いことに加えて乗り心地も非常に悪かった。T-34は転輪数が少ないためサスペンションが固かったためと言われています。

 これにより砲撃時の照準も合わせ難かったと想像できます。また過度の振動などもストレスになり、長時間の戦闘では兵士の

 士気に影響したことは十分考えられます。またギアミッションの操作が固く、故障も多かったため放棄される戦車も相当数

 あったと言われています。

 ソビエト軍戦車については、人間のことについては二の次で機能性・合理性を優先させる、すぐ壊れてもいいからとにかく

どんどん作ってしまえといういかにも共産主義的な発想から生まれたとも言えるのではないでしょうか。

 一方のタイガー2を始めとするドイツ軍戦車にも攻撃・防御力が優れている反面欠点もありました。

 ①タイガー2はその重量ゆえに小さな橋や泥地を走ることができず、作戦に支障をきたすことがあった。これは当時の地図

 はかなり適当だったため現場に到着して初めて土地の状態が分かることがあり作戦に参加できないことがあったようです。

 またパンサーやタイガーは構造が複雑で、操縦に高度な技量が必要だったため出撃する数も制限されることもあったようです。

  さらにガソリンエンジンが原因のためか航続距離に関してもソビエト戦車の半分~6割位しかなく、補給を常に意識する必要が

 あったため行動半径がかなり絞られたこともあったようです。

 ②鋼板の質が原料不足のため良くなく、シベリアの極寒においては貫通はせずも少しの被弾で傷が割れたり、内部で剥離す

 ることがあった。ドイツ軍戦車程ではありませんがこの現象は品質よりも生産性を重視したソビエト軍戦車にもあったよう

 です。

 また、使用する弾や照準器なども大戦中にかなりの質の向上が見られました。これらについても後程検討しようと思います。

 それでは次に個々の戦闘を見ていこうと思います。ポイントは赤字で示しています。

参考文献 山崎雅弘著 「[新版] 独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン、死闘1416日の全貌」 朝日文庫

 青木基行著 「クルスク大戦車戦 史上最大の機甲戦の実像」 学研 歴史群像新書

  月刊「丸 2008年5月号 ティーガー時代 重戦車研究」 潮書房 

 カール・アルマン著 富岡吉勝訳 「パンツァー・フォー」 大日本絵画 

 エゴン・クライネ フォルクマール・キューン著 富岡吉勝訳「ティーガー 無敵戦車の伝説 1942~45 下巻」大日本絵画

1.大戦前期(1941~1943)

 ソビエトはスターリンの粛清により幹部将校たちがほとんどいなくなり、一応準備はしていたものの兵士はほとんどまともな

訓練や実戦経験を積まないまま独ソ戦に突入したと言えるでしょう。一方のドイツ軍は以前からポーランドなどに侵攻し兵士の

練度も士気も相当高かったと思われます。1941年6月22日に始まった独ソ戦はドイツの電撃戦(空軍力であらかじめ敵兵力を

弱体化しておき、しかるのちに戦車などで一挙に襲い掛かる戦法)で始まりました(バルバロッサ作戦)。この電撃戦は以前

からドイツ軍お得意の戦法でした。キエフ包囲戦を経て結局ドイツ軍の大勝利に終わりましたが、ここではソビエト側は軽戦車

のBT-5/7、重戦車のKV-1、そして若干のT-34/76、ドイツ側はⅣ号戦車(短砲身)、35(t)などの戦車がメインでした。戦車同志の

対決はほとんどなく、KV-1やT-34/76が唯一強力戦車でしたが、実力を発揮する前に空軍のJu-87に爆撃されてしまい、あまり

活躍しなかったようです。Ⅳ号戦車では歯が立たなかったT-34の出現に驚いたドイツ軍はここからⅤ号戦車のモチーフとする

べくT-34を研究し始めたのでした。

   この作戦の成功で気を良くしたヒトラーは9月30日からモスクワ攻略に向けて侵攻を開始しました。 しかしながら12月頃から

厳しい寒波が訪れ、当初優勢だったドイツ軍は補給不足により次第にソビエト軍に押されるようになり、またこの頃になると

ソビエト兵の技量も戦闘経験などから向上し、新兵器「カチューシャ」なども登場したためドイツ軍はモスクワを前に敗退しま

した。一方のソビエト軍も同様に補給に困窮し、それをないがしろにした戦略のため、またヒトラーの死守命令によりドイツ軍

は多少反攻を開始し、両軍とも退却に近い形で戦闘は中途半端に終結しました。

 モスクワ攻略戦では雪による泥濘化がネックとなり、機動性及び航続距離に勝るソビエト戦車が活躍したようで、反対に

ドイツ軍の戦車は思うように動けなくなることが多かったようです。またソビエトはアメリカなどから膨大な数の車両の供与を

受けていたため(特にトラックなどの輸送車両)に補給面でかなり有利であったとも言えるでしょう。これらは戦車戦の勝利

と言うよりも戦略的にドイツ軍はソビエトの国家事情や風土、気候をあまり考慮していなかったための失策と言えると思われ

ます。

   厳しい冬を乗り越えた両軍ですが、先に動いたのはソビエトでした。しかし1942年5月12日に始まった第二次ハリコフ会戦で

は戦車の運用に長けていたドイツ軍が圧倒的に勝利しました。これはこの時のドイツ軍戦車にはすべて無線が搭載されていた

一方ソビエト軍戦車にはなく、全体的な作戦の執行がドイツ軍の方がはるかに勝っていたためと言われています。個々の戦車の

能力よりもいかに情報やチームワークが重要か思い知らされた戦闘と言えるでしょう。

   その後もドイツ軍はセヴァストポリ要塞を始め(ここでは有名な列車砲「グスタフ」が登場) 、ブラウ(青)作戦、エーデ

ルワイス作戦、カフカスの手前まで進撃し、残るはヴォルガを越えた先の要衝スターリングラードになりました。

 スターリングラード市街戦においてはドイツ軍機による爆撃と白兵戦が行われましたが、戦車戦はそれほど目立ったものは

ありませんでした。

 この市街戦でスターリングラードは陥落すると思われていましたが、ソビエト軍の大反攻に会い、一進一退を経た後の1943年

2月2日ドイツ軍は降伏しました。

2.大戦後期(1943~1945)

  スターリングラード市街戦と同じ頃ロストフに向けてのドイツ軍の撤退作戦が行われました。 これを機にソビエト軍はロス

トフを奪還すべく1943年1月20日から侵攻しましたが、新戦車タイガー1にT-34/76がことごとく撃破されたようです。

 それまでタイガー1は主にアフリカ戦線に配備され、連合軍戦車を圧倒していたようですが、ソビエト軍のT-34が相手でもか

なりの戦果を上げたようです。結局ソビエト軍に押されてロストフは守り切れなかったのですが、76ミリ砲などを何十発も喰

らいながら生還したタイガー1が1両いたようでドイツ軍もこれには驚いたという逸話もあったようです。そしてソビエト軍は

捕獲したタイガー1を調査し、T-34/85製造に向けての第一歩を記したのもこの頃でした。

 その後の1943年2月14日に今度は第二次ハリコフ会戦が行われ、ここでもドイツ軍は撤退を余儀なくされましたが、直後に新

戦車パンサーが完成した模様です。その功績は大きく、続く第三次ハリコフ会戦ではドイツ軍は反撃し勝利しました。特にバル

クマン率いるダス・ライヒ師団はパンサーでかなりの数(数十両)の戦車を撃破したようで、ベテランに操縦されたパンサーは

強力な戦車だったと思われます。この後両軍は史上最大の戦車戦と言われる城塞作戦(クルスク大戦車戦)に突入することにな

りました。

 この戦闘におけるドイツ軍(攻撃側)の戦車戦力は以下の通りです。

Ⅲ号戦車 約500両
Ⅳ号戦車 約800両
タイガー1 約150両
パンサー 約200両(実働約50両)

   その他 Ⅱ号戦車など約300両、突撃砲・自走砲など約700両、駆逐戦車(フェルデナント)など約90両

   航空戦力多数。パンサーは故障が続発した。

  一方のソビエト軍(守備側)の戦車戦力は以下の通りです。

T-34/76 約2000両
その他連合軍戦車、自走砲など 約1400両

      上記以外に予備戦力(戦車など)約5500両 航空戦力多数

  上記から当初から戦闘に加わった戦車の数だけ比べるとソビエト軍が若干多い程度ですが、後で待機しているその他の予備

兵力などを加えると1:3になり圧倒的な差になりました。

    1943年7月5日ドイツ軍は進撃を開始、パック・フロント(対戦車陣地)に苦戦しながらも前線にいた第505重戦車大隊

(タイガー1も保有)は数両の消耗で突撃後2日で敵戦車約100両を撃破しました。ただドイツ軍兵士の技量・士気は高かった

もののその歩みは非常に遅かったようです。ドイツ軍はおそらく前線のソビエト軍のバックに多数の予備戦力を控えていたこ

と、自分たちの方が数的にはかなり不利であったことは理解していたと思いますが、それらをカバーするために様々な戦術、

例えばパンツァー・カイル(楔形に戦車陣形を組むこと)でタイガー1などを先頭に据えたり、効果的に航空戦力を駆使したよ

うで、指揮官の優秀さが窺えたとも言えるでしょう。

    7月12日から始まったプロホロフカ戦車戦においては記録によるとタイガー1は当初の1/3まで激減し、全戦車のうち約60両が

撃破され、一方のソビエト軍はドイツ軍戦車の約5倍(300両)撃破されたことになっています。(そのうちT-34がどれ位占めるの

かは不明)ただタイガー1の減少は撃破によるものはほとんどなく、故障などで動けなくなったものがほとんどであり、いう

なれば自滅とも言うべきものでした。その後ドイツ軍は次から次と出てくるソビエト軍に業を煮やし撤退しました。

 そしてその後の第四次ハリコフ会戦ではドイツ軍兵力はほとんど損耗した結果ソビエト軍が勝利し、一連の戦闘は終結し

ました。結局この戦車戦でのドイツ軍の損害は戦車1500両、火砲3000門、航空機1500機、死傷者50万名(ソビエト側発表)と

言われていますが、ソビエト側はおそらく最低でもその倍はあったと推定されています。

   続いてその後小規模な戦闘が何度かあり、1944年1月にソビエト軍はウクライナの解放に向かいました。ドイツ軍は包囲さ

れた師団を救出するのに成功しますが、ウクライナはソビエト軍によって取り戻されました。また時を同じくしてレニングラ

ードもソビエト軍に取り返されてドイツ軍の勢いも翳りを見せ、この頃になると両国の国力差が顕著になり始めソビエト軍は

逆に西へ侵攻する準備を着々としていったようです。

 西部戦線やアフリカ戦線の負担も多大になり、これ以降ドイツ軍とソビエト軍は攻守が入れ替わった形になっていきました

が、ここで両軍についていくつか気づいた点を挙げてみようと思います。

①ドイツ軍は物量的に不利な状況を補うため巧妙な戦略や戦術を駆使していたと思われる点。ゆえに個々の兵器を強力化して

いったのであるが、武装や装甲にこだわり、広大かつ厳しい風土での戦闘をそれほど考慮していなかった。

②ソビエト軍はとにかく数で押し切ろうとするような場当たり的な戦略や戦術が多く、個々の戦車の戦闘の方法などはあまり

重視していなかったと思われる点。ゆえにある程度強力で風土に合致した生産性が非常に高い兵器を作った。

 ①と②は両軍の顕著な考え方の違いと言えるでしょう。これは極端な言い方ですが、ドイツ軍は東部戦線用に新たな戦車など

を開発するべきであったかもしれません。また余談ですがドイツ軍には何両撃破したなどの武勇伝が多くあるのに対してソビエ

ト軍にはほとんどないのはこうした考え方の違いによるのも大きいと思われます。

 さて大戦も末期に入り、いよいよタイガー2T-34/85、その他の強力な兵器が登場します。

  熟練兵とタイガー1の組み合わせで恐るべき大戦果を上げたのが1944年2月末から3月22日までに北部エストニアで行われた

第502重戦車大隊の戦闘で、わずか2両のカリウス少尉とケルシャー曹長のタイガー1でした。彼らはかなり被弾したにもかか

わらずおよそ1ヶ月でT-34など戦車38両、野砲17門を撃破し生還しました。これによりタイガー1は被弾しても乗員の生存率が

高いことが証明されました。

 そして1944年6月23日ソビエト軍の夏季大攻勢「バグラチオン作戦」が開始され、この時は新戦車T-34/85やJS-2が少数ながら

参加し、自走砲など合わせて計520両あまりの大部隊でソビエト軍の大勝利に終わりました。その後ソビエト軍はハンガリー

に進撃しましたが、1945年1月ドイツ軍はブダペストを救出すべく45両のタイガー2を含む第509重戦車大隊などを送り、険しい

土地と圧倒的な敵の数に苦戦しながらJS-2を含む戦車約20両を撃破し、自身も11両被弾や故障で離脱しました。そしてさらに

タイガー2は減り、わずか3両で41両のT-34などを撃破という快挙を達成しました。ただその後これら3両のうち1両がT-34/85から

防楯に直撃弾を喰らい、砲はつぶれてしまったようです。結局ブダペストは陥落しましたが、ハンガリー軍は降伏せずその後

も抵抗していきました。

 ソビエト軍は続いてポーランドの横断に成功し、ベルリンは目前に迫っていました。

 1945年3月6日ハンガリーにてドイツ軍による「春の目覚め作戦」が行われましたが、雪解け水に阻まれてほとんど進軍できず

撤退しました。

  その後最後の大作戦となるベルリン攻略作戦が4月16日から行われましたが、圧倒的な数のソビエト軍に対してドイツ軍はその

1/10しかなく、わずかな数の優秀な擲弾兵師団(エリート師団)や30両足らずのタイガー2では勝負にならず、撤退を繰り返し

結局ヒトラーは自決し、ベルリンは陥落しました。

 以上が独ソ戦の概要ですが、大戦後半部分で再度気付いたことを挙げます。

①ドイツ軍のパンサーやタイガー戦車など1両でかなりの数のT-34などの戦車が撃破されるという戦果が多いが、武勇伝を見るに

これはソビエト軍があまりにも偵察など情報管理がお粗末で、敵戦車の現在位置などの情報をほとんど知らされていなかったの

ではないかという点。

これは前述のごとくドイツ軍は戦術・戦略に長けているのにその対応をほとんどしていなかったのではないか疑われるということ

の根拠になるのではないでしょうか。T-34/85の一撃でタイガー2の砲身を潰すことができるのですから情報戦に力を入れて置けば

これほどの損害を被らなかったかもしれません。ただソビエト軍はあまりに数が膨大だったので情報管理は困難だったかもしれ

ませんが。

②パンサーやタイガーに乗車する兵士は熟練したエリート兵ばかりなのに対して、ソビエト軍は消耗が激しいせいかあまり熟練

した兵士が乗車しなかったために戦闘にかなりの技量の差があったのではないかという点。

③パンサーやタイガーの乗員の生存率がその頑丈な装甲などに守られてT-34に比べてはるかに高かったのではないかという点。

 こんな所でしょうか。まとめると次のようになると思います。

①ソビエト軍は戦車戦においてはその性能を最大限発揮させる戦術・戦略をほとんど採らなかったフシがある。例えば戦車同志の

連携(情報交換や隊形・陣形)を重視せず、極論すると各自が独自の考えで戦闘を行っていたように見えなくもない。

②対するドイツ軍は戦車に合った戦略・戦術を採ろうと試みたがソビエトの広大な土地を甘く見ていたため物量の見積もりも甘く

途中で頓挫した。ただ数が少ないながらも個々の戦車戦では熟練兵と強力な戦車で多いに実力を発揮した。

 戦車自体の性能や戦略などに関しては以上ですが、それでは個々の兵器(主砲弾や照準器など)も次に見ていきたいと思い

ます。主砲弾の性能も当然ながら戦争が進むにつれかなり向上していきました。

各戦車の主砲弾の種類と初速度(m/s)

  APCBC
(仮帽付被帽付徹甲弾)
APCR(硬芯徹甲弾) APCBC-HE DS HEAT
(対戦車榴弾)
T-34/76(F-34 76L51.6) 655 - - 965 325
T-34/85(ZiS-S-53 85L54.6) 792 - - 1200 -
パンサー(kwk42 75L70) - 1130 925 - (※1)
タイガー1(kwk36 88L56) 773 930 - - (※1)
タイガー2(kwk43 88L71) - 1130 1000 - (※1)

(参考:ウィキペディア、ww2-weapon.com)

APCBC:徹甲弾の発展型で主に使用された。先端が軟鋼

APCR:中の芯がタングステン鋼 外側は軽金属 希少な弾で大戦末期はほとんど使われなかった。

APCBC-HE:APCBCに榴弾機能(衝突時に爆発する)を付けたもの

DS:APCR(・APCBC-HE)のソビエト版 あまり使われなかった。

※1 ドイツ軍戦車のHEAT弾の初速度は正確には分からないが、あらゆる距離で80mmの装甲を貫通したと言われている。

 

   上記の表からドイツ軍のパンサーのAPCRは砲身が少し長くなったのもありますがかなり向上(200m/s)したことがわかります。そして

その発展型であるAPCBC-HEは榴弾機能があるにもかかわらず通常の徹甲弾並みの速度を出し、相当な威力だったと推測できるでしょう。

(通常対戦車榴弾は400~600m/s程度)

もっともパンサーやタイガー2もAPCBCを使用したでしょうが記録がないため詳細は不明ですが、パンサーの方がタイガー1よりその 口径

などを考慮しても砲弾によっては主砲の威力がより優れていた場合があったと思われます。また砲弾の性能だけでなく砲身内部の構造や

発出機能の性能の向上も考慮しなければならないのは言うまでもありません。

 ソビエト軍のDS砲弾はその原料の不足からあまり使われておらず、APCBC以下の砲弾がメインでしたが、もし多量に使われていたらかなり

の戦力になり、戦闘状況はかなり変わっていたかもしれません。T-34/85のDS弾は口径L54.6にもかかわらず驚異的な初速度です。

 総合しますと砲弾に関してはドイツ軍の方が種類が多く、より使い分けていたのに加え、性能に関しても若干上回っていたが、大戦が進む

につれて資源の枯渇が急速に進んでいき、性能でカバー出来なくなっていったと言えるでしょう。

   さて照準器に関してですが、現在の光学機器に引き継がれているようにドイツ製の照準器は当時世界最高レベルであったようです。

 タイガー1に搭載されていた「TZF9b」およびタイガー2に搭載されていた「TZF9d」、パンサーに搭載されていた「TZF12a」は最大照準距離

が3000~4000mに達し、その誤差も非常に少なかったようです。

  一方ソビエト戦車の照準器は職人不足のため大戦初期はかなり質が悪かったが、後期以降はドイツ軍戦車を参考にした結果大幅に良くなった

と言われています。(ジョイント式照準器 TSh-16など)

(参考:https://www3.atwiki.jp/works_petrowka/pages/57.html

(参考:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5870/statiya1.2.html

 訓練時と実戦時の命中率はかなり差が出るのが常ですが、T-34の場合は前述したようにかなり揺れたためさらに狙いが付けにくく、さらに

その差は開いていったと推測されますが、これは相当なハンデとなったと思われます。

 照準器については大戦初期はドイツ軍がかなり有利であったが、進むにつれほぼ互角になったということでしょうか。

 ここでもドイツ軍は見通しの甘さがでてしまったと言えるでしょう。

 次は参考ですが駆逐戦車や自走砲について見て行きたいと思います。

 

ドイツ軍・ソビエト軍の主な駆逐戦車・自走砲の比較(データはいずれも最後時のもの)

  装甲前面部/側面部(mm) 主砲 重量(t) 登場年月 生産台数
ヤークトパンサー 80/45 88L71 45.5 1943/12 419
ヤークトタイガー 250/80 128L55 75 1944/2 約100
SU-85 45/18 85L51.6 29.2 1943/8 2329
ISU-152 90/75 152L45(カノン砲) 46 1943/5 約700

参考文献 「ドイツ 駆逐戦車」 グランドパワー10月号別冊(2007) 増補改訂版 ガリレオ出版

「第2次大戦のソ連軍用車輛(下)」 グランドパワー10月号(1997) デルタ出版

戦車研究室:http://combat1.sakura.ne.jp/ コンバット猫丸氏・ウィキペディア

 

 駆逐戦車や自走砲は砲塔が回らず固定され、主に遠距離から敵の戦車や兵士に対して攻撃する車両を言いますが、両軍とも大戦

初期からその有効性に気付き生産を始めていたようです。特に大戦後期になると重戦車を改造し戦闘室が壁に覆われた強力なもの

が登場し、タイガーやJS-2なども撃破しうるようなものが多数出てきました。

  ヒトラーが大艦巨砲主義だったことは数々の話から知られていますが、その思想が各兵器にもよく表れています。

  ヤークトタイガーなどはまさに地上を走る強力巨大な戦艦と言えるでしょう。ヤークトパンサーやソビエト自走砲とは装甲・武装

とも大きな差があります。この頃になるとドイツ軍は押され気味になり、その対策のために開発されたことは間違いありません。

  ソビエト軍の車両で気が付くことは末期になっても依然として防御が手薄気味、その分生産性を重視した点にあると思います。

SU-85はその後T-34/85のボディを流用したSU-85Mが登場し、ISU-152はJS-2のボディを流用したものであることからもこの点がうなず

けるでしょう。

   一方のドイツ軍は初期に登場した自走砲付歩兵戦闘車(マーダー)や突撃砲などの個性的な兵器を登場させかなりの活躍を見せま

すが、西部戦線やアフリカで戦っていた影響もあり、兵器もそれぞれに対応したものを生産していったため向けるべき車両数が中途

半端になり戦略も自ずと制限されていったことは否めないでしょう。ヤークトパンサーやヤークトタイガーなどが後末期になってよ

うやく登場したことからも依然としてその方針を変えられず少数精鋭主義を採らざるを得なかったことはヒトラーにとっては痛手

だったと思います。

まとめ

   第二次大戦時の最強戦車は何だろうかと当初思っていましたが、その意味合いについては評価が非常に難しいことが分かりました。

  タイガーのように強力な戦車でも数が少なければ全体の戦果としては微々たるものであるし、逆にソビエト軍のT-34のように数は多

いが、戦術的にまとまりがなく、能力を出し切らない運用をしていたのも大きなマイナスです。ある研究家が、「最強の戦車はタイ

ガー2だが、最良の戦車はT-34/85である」と言っていましたがこの「強」と「良」の意味をどう取るかによって評価が分かれるので

はないでしょうか。タイガー2を推す人はその攻撃力と防御力に偏っていて、T-34/85を推す人はその機動性・生産性に偏っていると

よく評論されているのはその人の価値観や経験則から出ていることが大きなウェイトを占めているのは間違いないでしょう。

 この考察ではこれらを客観的に述べたつもりですが、まだまだ大戦時の戦車には明かされていない謎があるものと思います。

それらがいつ明らかになるのかは分かりませんが、その暁には評価もガラリと180度変わる可能性もあるかもしれません。

(完)